2006年に胃潰瘍で身体の血がかなり抜けているにもかかわらず、仕事で飛び回って、上越新幹線の高崎駅でどうにもならず新潟まで引き返しました。 病院に行って胃カメラを飲んで治療後、即絶対安静一歩も動くなと言われ九死に一生を得たのが、ちょうど6月でした。 広い病室には誰もおらず、ポツンとベットが1台のみ。 そこで8日間点滴だけで過ごしたことを覚えてます。 身体の血が抜けていくと、雲の上を歩いているようなフワフワした感覚になり、6月の暑さも感じません。もちろん痛みも感じません。 ですから時代劇で悪役が切られて大量の血が出ると痛みは感じないのかもしれないと思ったりしました。 ベッドに寝ているときに、「このまま死んでしまうのであれば、きっと自分にはやることが無くなったということだし、何か使命があるならばきっと生き延びるだろう」とフト思ったものです。運良く生き延びて、9日目には仕事をしていたのですが。 誰しも幼い時には「死」を考えて眠れなくなった経験もあるし、経営者になると、だいたい数年に一回は倒れてます。 そうした「死」を身近に感じていくと、大概のことは、「そう大したことではない」と腹をくくることができます。 別に何でもかんでも命をかけなくていいとは言いませんが、大概のことは大したことではないのです。
その証拠に「過ぎ去ってしまえば大したことではなかった」と思うのですから。 大したことは、これから向かってくることと、いま対峙していること。
このふたつしかありません。 ですから、大概のことは、命をかけるほどのことではありません。