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  • 執筆者の写真清水信博

親も多少はヌケていたほうがいい


近年、父親の威厳の変化がある。

昔は父親は近寄りがたいものだったが、現代は先輩後輩のような人間関係になった。

また立派な父親の子供は案外突出しないものが多い。

立派であるがゆえに近寄りがたいものがあるせいか、親子で触れ合う機会も少なく、子供には劣等感に近いものすら感じる。

それは親にとっても不幸なことであって、自らが立派な人間であろうとするが故に、一部の隙も作らなかったのだ。

現代では、親子関係が昔のように遠い関係ではなくなったものの、だから並列でよいというわけにはいかない。

親の背を見せて育てるという言葉があるように、親は親としての役目がある。

叱る時は叱る親でなければならない。

親は、子供の傍らには居るが、単なる傍観者ではない。

また世の中に、完璧な親など、どこにもいない。

完璧な親は評論家の世界にしか存在していない。

だから、親も「少しは子供が入り込めるヌケ」があったほうがいい。大穴が開いて、子供がダメになるようでもいけない。

つまり、親も「不完全」であったほうが子供は親しみがもてるものだ。


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