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  • 執筆者の写真清水信博

現実と乖離してはいけない

ゲーム理論によれば、現実をデフォルメ(変形・誇張)することによって、より現実を現すということがある。 だから現実に近づければ近づけるほど、逆に非現実的になることは多い。 このあたりがゲーム理論の面白いところである。  

TOC研修もダイスを振る行為やチップを動かすことは現実と似てはいるが現実そのものではない。だがゲーム化したことによって流れや滞留、速度といったものが見えてくる。 そしてその本質的なものから製造業だけでなく、多くのつながりをもった連鎖的な仕事の問題点が見えてくる。  

だからゲーム自体はできるだけシンプルであるほうが汎用性がある。 一方、ゲームを現実と異なるように変形させることは望ましいことではない。現実が主であり、ゲームは従の関係をよくわきまえて手を加えていくことだ。 ゲームが主になることは今も未来もない。 あくまでも人を助ける道具としてのゲームであるからだ。  

私がTOCゲームの5番、よりシンプルなDBR理論をゲーム化した時に最も悩んだのが、汎用性をもたせることと、いかにシンプルにするか、そして現実をあらわすかだった。  

シンプルであるほど汎用性は高くなる。 汎用性が高くなるほど現実に応用できる。 その想いで創った。  

出来上がったものを見た人は、こんなものかと思うだろう。 だがTOCの専門書の後半部分に20頁ほど紹介されていたS-DBR理論をゲームとして表現するのは苦心した。 このゲームこそが、DBR理論を超えるものであって、あらゆる不確実性を加味しつつ、システムが受ける衝撃を軽くする唯一の方法なのである。  

ゲームとは何のためにあるのか。 それはあくまでも人が成長するためにある。 事の本質を見抜く眼と、深く考える思考を磨いていくためにある。 そして現実をより良く変革していくためにある。  

ここをおろそかにすればゲームは単なる楽しいだけの遊びになる。そしてゲームの勝ち負けだけが目的となり、ゲーマーが幅を利かす。そして現実はいつまで経っても何も変わらない。  

教える方も、ゲームを通じた金儲けに終始していれば、それは教育者ではなく、志を忘れた拝金主義の人間でしかない。 そうなれば、教える者にとっては喜劇であり、教わる者にとっては悲劇となる。

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